スティーブン・ユニバース・フューチャー レビュー(前編) : 終われない幼年期
さよなら、スティーブン・ユニバース。
今月、ついに日本でも本当の本当に最終回を迎えたスティーブン・ユニバースについて書きました。作品が終わって放心状態だった僕の中で、区切りをつける為に書いたものです。本稿はスティーブン・ユニバース シーズン5までと映画版含む完全ネタバレありですが、SUFを最後まで観た方は読んでいただけると嬉しいです。
スティーブン・ユニバース・フューチャーについては、放送概要、内容や番組の立ち位置を紹介する記事を放送開始時に書いてます。
minefage21.hatenablog.com
今月ブーメランでの放送は完結しましたが、22年1月からスカパーのカートゥーンネットワークでフューチャーの放送が開始されるようです。スカパーの方は観終わってから、また戻ってきてくれたら嬉しいです。
<目次>
はじめに
スティーブン・ユニバースはテレビシリーズで作者が訴えたい理想は描き切ったように思えます。子供向けという制限をファンタジーとして巧みに利用して、誰も傷つけないように細心の注意を払いながら、少し問題を抱えた家族とその子供と言うテーマを、子供に理解できるエッセンスを抽出して表現しました。そしてその家族の中での自己形成を、最終的に自分を肯定した瞬間をクライマックスとすることで描き出しました。無私の心によって家族や周りの人達を助け、彼自身はその無私からの解放を最終回でエモーショナルに描いたのです。では、続編にしてエピローグミニシリーズであるスティーブン・ユニバース・フューチャーは一体何を描くのか? それは、よりパーソナルな私小説的な物語であり、よりスティーブン個人の話でした。
本作、スティーブン・ユニバース・フューチャーを見終えた時、僕は正直言って、これまでスティーブン・ユニバースを舐めていた自分を痛感しました。それ程本作はショッキングで、芸術的でした。暴力を介することなく、あくまでコミュニケーションに根ざした上で、本編シリーズよりもっと身を引き裂かれるような厳しく具体的な表現を用いて、本編の良さであったセリフで表現しない / 出来事と演技で客観的に見せるという美点を更に高め、かつテーマである理解と共感をこれまで以上に描き出し、そして•••、本編最終回で描かれた主人公スティーブンの自己肯定の先の物語、間違いなく続編といえるテーマ――自分と他者の問題・環境との軋轢を描いたのです。更にそれだけではなく、家族から十分にケアされなかった幼少期が彼に与えた負の影響、そこからの脱却までを、彼の心の傷にフォーカスした上で描き切りました。
スティーブンは少し内気な青年へと成長した
主人公スティーブン・ユニバースは16歳になったことが映画版で示されました。そしてフューチャーはそれから更に数ヶ月が経ったことが示唆され物語が幕を開けます。映画版でもその端緒が描かれたように、彼は明らかに本編シリーズとは異なる人間になっています。小太りで元気いっぱいな子供から、背が伸びて少し痩せ、やや静かで思慮深い、落ち着いた青年になっています。相変わらず一張羅だけど、ピンク色のお洒落なMA1を着て、もう免許を取っていて父親のセカンドカーである古いハッチバックに乗っています。以前はファストフード大好きだったけれど、今はベジタリアンになり、もうあの可愛いけど子供っぽいハンバーガーリュックサックも背負っていません。
とは言っても変わらない部分もあります。ビーチの家にクリスタルジェムズと住み、故郷からやってきた多くのジェム達の面倒を見ながら過ごしています。ジェムズの3人とはシリーズを経て健全な青年と親の関係になっていますが、それでも彼は彼女達からの干渉を少しウザったく思っています。(フューチャー第7話 『鬼ごっこ』"原題 Snow Day"、第10話 『心の棘』"原題 Prickly Pair"より)
しかし彼の周囲は少しずつ変化していっています。シーズン5で結成したセイディ達のバンド、セイディキラー&サスペクツは解散してしまい、バンドのメンバーだった街のクールな3人、元市長の息子バックは医学部に進学し、サワークリームはD Jとして活動を始め、ビザ屋のジェニーはまだ街にいるようですが、独自のビジネスを始めたことをスティーブンに話します。そしてセイディはシェプというノンバイナリーの恋人を作り、2人で音楽活動を続けています。そう、彼女はシリーズの腐れ縁、ラースとは別れてしまったのです。
ラースは、シーズン5のラストで地球に帰ってきて以来、実は得意だったお菓子作りの才能を活かして可愛いケーキ屋さんをやっていましたが、それも辞めて、またはぐれ物のジェム達であるオフカラーズと一緒に宇宙旅行に戻っていきます。
そしてコニーは大学の早期入学を目指して毎日勉強していて、スティーブンとは15分の休憩時間にビデオチャットをするだけです。
スティーブンはそんな周囲の変化に置いてけぼり感を覚えて、焦燥しています。
他者との違いへの気づきと、その苦しみ
シリーズの最終回、そして映画版で描かれたその後の姿のように、スティーブンはかつてのように自分よりも他者を優先することはなくなり、以前よりもハッキリと自己主張をするように変化しました。彼自身が子供から大人になる為に、自分自身を認めると言うことが最初に必要だったからです。いわばシリーズのエンディングは彼の幼年期の終わりと1人の人間としてのスタートとも言えるものでした。
しかし、自分を表すということは、他人との違いも鮮明になるということです。もうぬるま湯の中でお互いに認め合うことだけでは済まないのです。自分と他人との不一致は人生の中で強い痛みを伴うことでもあるのです。監督のレベッカ・シュガーは本作において、その対立と、その結果として生じた彼の耐え難い痛みを強く描き出そうとしています。本章では彼の長年の友人であるラースとセイディ、そしてコニーとの対立を軸に触れていきます。
ラースとセイディの恋愛関係は本編シリーズの中で常に一定の比重で描かれてきた関係でした。同じドーナツ屋に働く2人は、真面目で少し気弱な性格のセイディと、サボり屋で真面目な彼女に仕事を押し付けているラースという、一見反目し合っている関係ですが、2人が仲違いせずにいられたのはセイディがラースのことを好きだったからです。セイディのラースに対する不器用な感情は、彼女達の登場と共に断続的に描かれていました。(第30話無人島でサバイバルで、セイディの恋愛感情はハッキリと示されてます)ちょっと歪な関係の2人ですが、彼女達のことを何故か気に入っている子供時代のスティーブンは事あるごとに2人の仲を盛り上げようとします。
ところが前述のように、フューチャーにおいてはもはや2人は恋愛関係にありません。フューチャー第9話 『卒業』"原題 Little Graduation"において、その顛末が描かれます。
2人が別れた事実にスティーブンは二重のショックを受けます。まず2人が今や一緒にいないこと、そしてその事実を関係が清算されて時間が経ってから知ったことです。
子供時代のようにピュアに2人が結ばれる幸せを願っていたスティーブンは、突然現れたセイディの新しい恋人を受け入れられず、2人の間に何か間違いがあったのでは無いかと疑い、セイディを詰ります。何故相談してくれなかったんだ、言ってくれなかったんだ。
しかし、当の2人の間では上手くいかなかったことについてお互い十分話し合って理解しており、もはや不満は無いのです。セイディはスティーブンに、”That's because it was private. (プライベートなことだから)”、と告げます。
それでもスティーブンは納得できません。2人の別れだけではなく、彼が気に入っていた彼女達のバンドは解散して街の仲間達はそれぞれ別の道へ進んでしまったし、彼の目には順調に見えたラースも仕事を辞めて街を出て行くと言います。全てに対して思い通りに行かないことに動揺して、彼は皆の前で取り乱してしまいます。
(作中、青年期を迎えたスティーブンは感情が高ぶると抑えることができなくなりピンク色のスティーブンになってしまうように描写されます。こちらについては後に詳述します)
当人達(=他者)が考える幸せと、彼が思う当人達の幸せが異なるということが、なかなか理解できないのです。
2人の関係の終わり(と始まり)
青年期を迎えた彼の悩みの一つはコニーとの関係です。前述のようにコニーは大学進学の準備に忙しく、以前のように頻繁にスティーブンとは会えていません。そして、フューチャー第12話 『友達作り』 ”原題 Bismash Casual”でスティーブン本人の口から指摘されたように、シリーズ=子供時代のように剣と盾を持ってジェムの戦いを行っていた頃と違い、今や2人の生活は異なるものになっています。
スティーブンと違い、コニーの生活は基本的に学校に根ざしています。スティーブン・ユニバース・フューチャーのコニーは洒落たジョークを言ったり、学校の友達とふざけ合ったり、流行りの(?)歌を口ずさんだりする普通のティーンエイジャー、むしろちょっとワイルドでカッコいい女の子として描かれています。内気で大人しかった子供時代とは対照的です。
2人は子供の頃と同じように、友達以上恋人未満の曖昧な関係を続けています。同じように歳を重ねて成長したスティーブンはコニーに対して、シリーズとは少し異なった感情、非常に複雑な感情を抱いています。今までどおりの友情の他に、ちょっとした憧れと、違和感と、疎外感です。
フューチャー第13話 『永遠の愛』 "原題 Together Forever"は、2人が有耶無耶にしてきたお互いの関係についての問題をお互いの間に、そしてオーディエンスの前に明らかにし、2人の齟齬がハッキリと描かれます。本作の中でも後述の第15話 『ミスター・ユニバース』”原題 Mr. Universe”と1、2を争う名エピソードです。
彼の疎外感にも理由があります。コニーが大学に進学したら、彼女は彼の街から遠く離れた場所に越してしまうからです。2人がそのことについて会話をしている様子は描かれません。コニーの本心を計りかねたスティーブンは、将来に対する不安や焦りから、いきなりコニーにプロポーズをしてしまいます。
驚き、慌て、少し引いたような態度を示したコニーは、彼が冗談を言っているのではないと悟ると、真剣な表情で「私たちはまだ若すぎる」と訴えます。
ここでコニーとスティーブンの間には大きな溝が生まれています。コニーは、目の前の大学進学やその後のキャリアについて彼女なりにきちんとした思いを抱いているのに対し、自分の結婚についてのイメージなどしていなかったのです。はるか昔、第46話 "本当の気持ち”で小学生の頃にコニーとスティーブンは結婚観について間接的に話していますが、彼女は結婚だとか恋愛に対しては“メディアや大衆が作り出す商業的”なイメージを抱いていて、捻くれ者で現実主義の彼女は少しネガティブな感想を抱いています。
対してロマンチストなスティーブンは、前述のエピソードに登場する小説の中で描かれていた壮大な結婚式の描写にもの凄く感動してファンアートを描くような、恋愛とか結婚とかそういうことが大好きな少年です。前節で触れたように、他人の恋愛にもすごく感情移入して応援してしまう性格です。ただ、彼のプロポーズには別の意味も込められているようにも感じました。彼の言う結婚とは、合体してステボニーという人格になり、一緒に生きよう、これまで通り永遠に変わらないでいよう(ある意味では子供時代の友情関係を続けよう)と言う意味です。
レベッカはインタビューでプロポーズがコニーに対する恋愛感情と共に、スティーブンの結婚に対する憧れが背景にあることを暗示しています。そして将来についての考えについて彼とコニーとの対比についても触れています。
In the room, we really had to sit down and say, “Well, what? What does Steven want for his future?” ...
but in the end, we all thought, well, he’s gonna want to get married. That would definitely be his dream—he loves weddings and he loves love. ...
But also, we were just looking at the state he was in, and we knew that with Connie having so much figured out and with Steven not really spending that time to figure out what he wants, that disappearing into their relationship would be really appealing to Steven. A lot of his behavior in Future is not unlike his mother’s behavior before him.
ミーティングの中で、私たちは腰を落ち着けて考えなければなりませんでした、”それで? スティーブンが将来に望んでることって?” (中略)
最終的に、私たちは彼が結婚したがっていることで同意しました。間違いなく彼の夢は――彼は結婚というものが大好きで、愛が大好きなんです。(中略)
でもまた、私たちは彼が今いる状態を分かっていて、コニーは沢山のことに見通しを立てているのに対して、スティーブンは彼の望みに対して本当に時間を割いていないので、2人の関係が壊れてしまうのはスティーブンにとって本当に胸に訴えるだろうと思えました。”フューチャー”での彼の行動の多くは、以前の彼と違い、母親の行動と似ています。
彼女の言葉を拒絶と捉えたスティーブンは、虚をつかれたような表情を浮かべます。傷付いた彼の様子に気づき、コニーは慌ててスティーブンを抱きしめ、答えは”No”ではなく、“Not Now (今じゃない)” であると伝えます。しかしスティーブンは納得できず「これからも一緒に生きるなら、何で今じゃダメなの?」と訊ねます。彼女は直接は答えず「私たちには時間はたくさんあるよ、心配しないで」と伝えます。彼女もスティーブンのことが好きで、愛しているのです。むしろスティーブンが彼女を想う気持ち以上に、彼のことを信頼し、心から愛していることが伝わる名シーンです。
しかし、言葉通りの意味しか取ることができなかったスティーブンは、彼女の真意には気づくことはありませんでした。2人がゆっくりと、もどかしさの中でお互いに対する想いを告白し始めたところで、15分の休憩時間が終わってしまいます。スティーブンは彼女の携帯のアラームの音から連想します――彼女は自分ではなく大学を取ったんだ、と。
この出来事以降、スティーブンはコニーを避けるようになります。彼のプロポーズの背景には、彼女に対する恋心だけではなく、彼女を自分の側に繋ぎ止めておきたいという、無意識的な所有欲、独占欲もあったのかもしれません。もっと純粋に、後日父親に吐露したように、大学に一緒に行きたかっただけかもしれません。そう言った様々な思いや考えが彼の中で言葉という形となることなく渦巻いていたに関わらず、それはコニーには伝えることができず、彼女の側も受け取りませんでした。また彼もコニーの思いや考えに対して、恥ずかしさや気まずさ、これ以上傷つきたくないという恐れから拒絶してしまいます。
スティーブンが失恋によって深い悲しみに沈んでいることを、たかだかその程度のことでと大袈裟と感じる方もいるかもしれません。しかし、スティーブンのコニーに対する恋愛感情がどの程度だったのかは分かりませんが、青年期の恋愛は―― ましてやスティーブンのような純朴で感受性豊かな青年にとって、それがどれ程の破壊的なショックをもたらすかは、様々な経験を経て心の痛みに防波堤を築き終わった大人のそれとは比較にならない苦しみであることは、想像できるのではないかと思います。
結局、どんなに仲が良くても彼女ともやはり他人であるのです。そして彼女が他人であること、自分と違う考えを持っていることを彼は受け入れられず、それを彼女からの拒絶と受け取り、彼は深く落ち込んで行きます。
逆境的小児期体験と鬱状態
フューチャーではスティーブンの深い落ち込み、ほとんど鬱のような状態を描いています。フューチャー第14話 『心の痛み』”原題 Growing Pains"で彼が父親グレッグに彼の感情を必死に言語化して訴える場面に、その深刻さが滲み出ています。
How do I live life if it always feels like I'm about to die?!
もしいつもこんな死にそうな思いが続くなら、どうやって生きていけばいいの?
彼の鬱症状の直接の引き金は、前述のように、幼馴染であり好きだったコニーから拒絶されたという絶望感からであることは明白です。しかし実はその前から彼の心に対しては既に銃口が突きつけられた状態であったことが、このエピソードで示唆されます。
彼の不調はこの時突然始まったのではなく、(まるで現実の精神不調のように)以前から肉体的な異変として現れていました。前述のように、フューチャーでは些細なきっかけで度々スティーブンの感情が昂り、暴力的になり、身体がピンク色に発光する様子が描かれています。これまで温厚だった彼とは明らかに異なる雰囲気で描かれます。フューチャー第1話 『学校』”原題 Little Homeschool”でジャスパーにイライラする場面、第4話 『2人のパール』"原題 Volleyball"で母親の悪行?の話題に苛つく場面、既に述べた第9話 『卒業』"原題 Little Graduation"での一幕など。
身体の異変に気付いたコニーの強引な勧め (スティーブンの異変に気づいてくれるのはいつもコニーだけです•••) で、スティーブンは渋々ながら彼女の母親である医者のDr.マエスワランの診察を受けます。そこで彼女から、“子供の頃に日常的に辛い経験をすることで、社会的・情緒的・身体的な発達に悪影響を与えてストレス耐性が下がってしまう”可能性を指摘されます。
以下に引用するレベッカ・シュガーのインタビューでも触れているように、これはAdverse Chidlhood Experiences (日本語名 : 逆境性小児期体験)の影響を示したシーンです。
I had read this book recently called The Deepest Well, by a doctor named Nadine Burke Harris. It discusses the effects of adverse childhood experiences and how it can affect your development emotionally, physically, socially.
; 私が最近読んだ本で、”Deepest Well (訳註 : 邦題 小児期トラウマと戦うツール)”というナディン・バーク・ハリス医師の書いた本があります。これは逆境的小児体験と、それが、情緒、肉体、社会性の発達に与える影響について議論しています
“VALTURE : A LONG TALK Rebecca Sugar Says Good-Bye Steven Universe, By Eric Thurm” より
Adverse Chidlhood Experiencesとは、ACEと略されたり、日本語では逆境的小児期体験 と訳されており、近年研究が進んでいる比較的新しい学術用語です。情緒の発達段階である幼年期〜小児期 (18歳未満) に経験した過大なストレスを伴う出来事のことを指します。 ストレスの例は大小様々ですが、虐待や両親との離別、アルコール中毒や精神疾患のある両親などとの機能不全家族で育つことなどの例が挙げられています。劇中でも述べられているように、このような経験がその子の成育に大きな影響を与え得るのです。インタビューで取り上げられているナディン・バーク・ハリスさんの”Deepest Well”と言う著書は”小児期トラウマと戦うツール”と言うタイトルで日本語訳もされています。こちらは本当に考えさせられる名著です。本作の着想を得ただろう本でもあるので、興味を持った方は、ぜひ読んでみてください。
スティーブンの逆境体験は劇中で指摘されているように、小さい頃から家族と一緒に命の危険に晒されて、大きな責任を背負わされ続けたことだと思いますが、もう一つ、ピンときた部分、そこについに踏み込んできたか、と感じた部分がありました。
レベッカ・シュガーさんがより詳細に作劇の意図について語っています。
He’s been pushing a relentless positivity at the expense of his own health through most of his childhood, ...
He hasn’t really gotten the support that he provided to other people. He has always felt it was up to him to make sure everyone around him was comfortable — and, in a way, that includes the audience.
; 彼は子供時代の殆どを通して、自分のことを顧みずに懸命に頑張ってきました、(中略)
周りに与えてきた思いやりを、彼自身は全然受け取っていません。彼はいつもみんなが大丈夫なことを自分が確認しなきゃいけない思ってきました。ーそして、ある意味では、そこにはオーディエンスも含まれます(訳註 : メタ的な意味で我々視聴者もスティーブンにとってのストレッサーであると言っているのです)
“VALTURE : A LONG TALK Rebecca Sugar Says Good-Bye Steven Universe, By Eric Thurm” より
どうして、スティーブンは自分を犠牲にしてまで頑張らなければいけなかったのか。なぜそんな風に考えなければならなかったのでしょうか。本編で描かれたスティーブンの無私や利他性は、彼の必死の心掛けによるものだとレベッカ・シュガーは指摘しています。そして「逆境性小児期体験」を引き合いに出していることから推察されるように、生まれつきのものではなく、生まれ育った環境に由来するものであることを意図して描写されていると思われます。彼の繊細な気遣い、共感力は、常に大人に囲まれ、周りの大人の目を気にして生きることでやむを得ずに養われたと言うことです。
本編シリーズにおいて断片的に、スティーブンが母親の責任を背負わされていると感じている様子や、自身の周囲の大人の期待を重荷に感じ、しかしそれを子供らしく表に出すことなく心の底にしまう描写は描かれてきました。その中でも比較的番組の前半で、かつ最も顕著に描かれたのが、第38話 ”テスト”と言うエピソードでしょう。
覚えていない方もいるかもしれませんが、物語のあらすじはこうです。スティーブンとジェムたちの平和な日常の中で、ふとしたきっかけでパールが、かつてスティーブンに課せられた”任務”が、実は彼が戦いで使い物になるかを試すテストであったことを喋ってしまいます。騙されていたことに憤慨し、落第の判定を下されていたことにショックを受けたスティーブンに対し、3人は今度こそ本当のテストをするよ、と慰めます。機嫌を取り戻したスティーブンは、意気揚々と”テスト”に望み、苦労しながらも次々とクリアしていきます。しかし次第に、上手く行き過ぎていることにスティーブンは疑問を持つようになります。実はこの”テスト”は何をやってもクリアできるモノで、3人がスティーブンに自信を取り戻させようと画策したものでした。その事実を偶然目の当たりにしてしまったスティーブンは、再びショックと、憤りを覚えますが、その思いを心の内に飲み込んで、無事に”テスト”をクリアして3人からの祝福を受けるのです。
彼の親代わりであるジェムズの3人は、幼い彼の為に良かれと思って、何度でも嘘を吐き、本当のことを隠します。しかし彼にはそのことはバレてしまっています(いずれにせよ、いつかはバレるでしょう)。 しかし彼女たちの行動が善意からのものであることが分かっているからこそ、スティーブンは彼女たち(=親たち)の願いを否定することができず、彼女たちの考えを肯定してしまいます。自分の思いを否定してまでも。
オーディエンスという立場から一部始終を俯瞰的に見ていた僕らは、作者が意図的に描き出したスティーブンの苦しみを見てとることができます。彼が苦渋の呻きをあげながら、絞り出すように彼女たちにお礼を言う場面や、悲しげな目を浮かべて彼女たちとハグするラストシーンからです。本来は子の気持ちを察するのは親の役割でしょうが、子であるスティーブンが親の気分を探って生きていること、善意の悪がスティーブンにとって呪縛であることを示した名エピソードです。このように本作はかなり自覚的にスティーブンと親との、一見仲睦まじい家族に見えながら実はギクシャクした関係を描いてきていました。
だからこそ、スティーブン ユニバース フューチャーで彼が周囲に対して醸し出す、「言っても無駄」という雰囲気には説得力があります。
ここでやはり誤解されないで欲しいのですが、僕はこの記事でスティーブン ユニバース フューチャーは親=ジェムズを非難する内容だと言ってる訳ではありません。またこの親子関係が単に害悪だと言ってる訳ではないです。後編でレベッカ・シュガーのインタビューを引用しますが、本作の登場人物には神のように正しい人物などいないのです。本作では多くのことが表裏一体であり、ジェムズとスティーブンとの関係、ジェムズと父グレッグとの関係、そして後編で述べる父親グレッグとスティーブンとの関係が、スティーブンの繊細な共感能力を養い、それによって家族や友達、周囲の人たちが救われたことが描かれてきました。しかしその優しさのポジティブな面を描くことに終始した本編シリーズに対して、描ききれなかった片面である、そのネガティブな面、犠牲になった面を描こうとするのがこの続編であるフューチャーなのです。
さて後編では、本作スティーブン・ユニバース・フューチャーの中で最も大きな対立、そして他者との齟齬を超えた、彼の歪な成育環境の主要因の1つとして描かれている、実の父親グレッグとの関係に注目していきます。これまでに描かれてきたグレッグとはどのような人物だったか、そして作者が描こうとしたものに迫っていきたいと思います。
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後編はこちらです
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